先生が死んだ。

日常

中学校の頃の話だけども、塾にT先生っていうちょっと怖めの人がいた。

当時俺が通ってた塾には「ケツパイプ」という伝統があって、それが「バツゲームで鉄製のパイプでケツを叩く」というものだった。パイプというのは水道の配管とかに使う文字通りパイプだったんだけども、これでフルスイングでやられるとマジでケツの骨が折れるかというほど痛く、「宿題忘れたらケツパイプ10発ね」とか言われるとゲロ吐くほどのプレッシャーを感じておったものだった。

んでT先生はこの「ケツパイプ」は使わなかった。

彼の担当は国語だったのだけども、代わりに罰ゲームとして用いていたのは「漢字の書き取り400字」というものだった。これはこれでクソ面倒な上に、ケツパイプと違って一発で終わるものじゃないので精神的苦痛がまあまあひどく、しかもT先生の罰ゲームはなんかしらんが累進法というか、倍々ゲームでそれが増えていくみたいな感じの、実に嫌な制度を導入しておられた。具体的に言うと一回忘れたら800。つぎは1600。次は3200。その次が6400。みたいな感じだったんだけども、これは実際食らってみるとなかなか洒落にならん程度にプレッシャーがエグかった。しかもこの累進回数に関しては根本的な仕様がおかしく、連続回数がリセットされても継続される方式だった。つまり、しばらく真面目にやってても、何かのタイミングで忘れたら連チャン継続である。どんなに真面目で優秀な生徒でも、うっかり宿題のノートを忘れる事なんかは普通にあるわけで。油断してると1600文字とかを普通に食らう。

とにかく当時我々の間では、この漢字書き取りの宿題に関しては鬼門中の鬼門だった。

俺はちなみに3回忘れたことがある。3200文字である。これほんとに苦痛だった。書いた文字は今でも覚えていて「錯覚」と「欧米」と「肝臓」だった。2時間くらいかかったと思う。マジでT先生大嫌いになった。

んで、あれは俺が中3の頃だ。

生意気にもそこそこ偏差値が高めの高校を志望してた俺は、毎日毎日夜中まで塾に通っておった。俺が通ってた塾は生徒数が多くて、月に一度やらされる学力テストの点数順でクラス分けがされていた。AからDまで。俺はそこのBとCを行ったり来たりしてた。

Cクラスというのは、これは激戦区だった。

Dクラスは正直、勉強しないというか、したくても出来ない感じの子が集まっておって、そこからCに上がるとかあんまり無い感じの「隔離病棟」みたいになってた。んでAクラスというのは、これはもう別格だった。ナチュラルに勉強できる秀才たちの集会所だ。だので、実質的にはBとCの戦い。特にCの連中はDに落ちるのが嫌すぎるのでめちゃ頑張る。そんな構図だった。んでそこのCクラスがT先生の受け持ちだったのだけども、ある時から、T先生はこんなオプションを導入した。

「今回から、Cクラスの生徒は漢字書き取りの宿題を倍にします」

つまり、毎日400字の書き取り宿題が800字になるのだ。それだけでもクソ面倒臭いのに、なんと忘れた時の累進にもそれが課される。1回忘れたら1600字。2回目で3200字である。俺はその時点で3回忘れてたので、つぎ忘れたら4回目。12800文字だ。頭がおかしい。

んで、友達にクリという男がいた。

クリは何か知らんが頑なに「漢字の宿題をやってこない」ということで有名な男で、なんとこの漢字書き取りペナルティに「ツケ制度」を導入していた。つまり、卒業までに仕上げる約束のもと、提出を猶予してもらっていたのである。しかし、猶予してもらっていたとてその日のノルマの800文字はやってくる。それをいくらこなしても、ツケは減らない。リボ払いみたいな制度である。

「クリ、今ペナルティ何文字あるの?』
「分かんない。10回くらい忘れたから──」

誰かが計算すると、10回目で400,000文字くらいになってた。未提出の分を累積すると軽く100万文字くらいになってる。もやは坊主の修行である。しかも10年くらいかけてやる感じの。恐ろしいのは、T先生が廊下とかでクリの顔を見るたびに「オィ~、早よォ100万文字持って来ねぇかァ~」みたいな感じでプレッシャーを与え続けてたことだ。

今思えばコレは大人の冗談だったんだろうけども、クリはこれでちょっと病んだ。

そしてある時から「俺サァ、解決策が分かったんだ。T先生が死ねばいいんだよ」とか意味不明の事を言いだしたのである。彼は「T先生が死ねばいい」という言葉を唱え続け、あまつさえある時期から「T先生もいつか死ぬから大丈夫」という、良く分からん達観に至ったわけだ。彼はそこから漢字の宿題を一切やらなくなり、ペナルティの文字数が億の位に達するのにはさほど時間が掛からなかった。キツすぎる締め付けが子どもを毀した、教育学的に興味深い例だと思う。


さて、俺の家は長崎の片田舎の、トンネルの上にある丘の中腹にあった。

丘を登りきったところには市内で一番大きい歩道橋があって、その根本の部分に、真新しい、ちょっと洋風の建物がある。今でもね。

俺は中2のいっとき、どうしてもNECのPC9801というパソコンが欲しくて新聞配達をしてた時期がある。新聞配達ではいくら頑張っても買えない高いパソコンだったんだけども、一年頑張って8万くらい貯めたら残りはおばあちゃんが出してくれた。青春時代には余裕で元が取れるくらい使い倒したんで決して無駄な買い物ではなかったんだけども、ただ、新聞配達してるときにものすごく嫌な事が一個あった。歩道橋の根っこの部分、洋風の建物だ。そこは柴犬だか秋田犬だか分からんけども、茶色い犬を飼っておって、何か知らんが夜中に放し飼いしておったのである。

新聞配達の中学生にとっては、そいつはマジで敵だった。

追いかけられ、噛まれ、噛まれ、追いかけられ。今思えば犬も遊んでるつもりだったんだろうから甘噛だったんだろうけども、当時は恐怖以外の何者でもなかった。

「ねー、犬がねぇ、怖いんだよね」

本気で困っていた俺がおばあちゃんに相談すると、彼女は一言こう言った。

「棒もっていかんね。犬は棒が好かんたい」

棒。シンプルに武力に頼る。それだ! と思った。翌日。朝4時半に起きた俺は、棒の代わりに傘を持って仕事を始めた。新聞配達に使う、謎のワンショルダータイプのバッグをナナメにかけ。そこに新聞を入れてね。配達先の前にいったら、それを取り出して三つ折りにして入れる。雨の日は個別にビニールに入っててそれを剥くのが面倒臭いんだけども、その日は晴れだったから普通に三つ折りにしてどんどん入れていった。ただ、晴れてたけど傘は持ってる。犬をやっつけるためだ。何の変哲もないコウモリ傘だったけども、その時の俺にはてんくうのつるぎのように思えた。

やがて、歩道橋の根っこの洋風の建物にたどり着いた。

いつものように、人の気配に気づいた茶色い毛並みの犬が、ハァハァと息を吐きながら走って近づいてくる。揺れるシッポ。唸り声。エンカウントだ。俺の頭の中にはドラクエ5の戦闘音楽が流れていた。傘を構える。剣道経験は無いから、とりあえずそれっぽく。ダイエーホークスの秋山みたいな感じで、傘を構え片ワキを締めてスッと立つ。

なんだよ、やるんか。

犬がじゃれつく。こなくそ。傘を振る。とはいえ生き物を殴る、というのにすごい抵抗感があったので、絶対当たらない位置の空を切る傘。ただの素振りである。ブンブン振る。俺の右足のふくらはぎあたりを狙って、的確に噛んでくる犬。これはいかん。ソイ! ソイ! 傘で突く。犬はしっぽを振りながら距離を取ったり、飛びかかってくる。この野郎。この野郎。ソイ、ソイ──! やってるうちにワンショルダーのバッグから新聞が落ちる。犬が踏む。ああ、こいつついにやりやがったな! もはや許しておけぬ。ソイ! ソイ──!

「ペルをいじめないで!」

気づくと、道路には小学校中頃くらいの女の子が口をへの字にして立っていた。色素が薄い。小さな女の子である。くりくりの天パで、憎しみを込めた上目遣いで俺を睨んでいた。今しがたまで牙を向いて唸っていた犬が、キューンとかいいながら女の子の元に寄り、その足元にじゃれつく。

「ペルをいじめないで!!」
「ペル……? その犬? いや、そいつが──」
「ペルをいじめないで! お父さん!!」

お父さん。子が父を呼ぶその声には不思議な魔力がある。遠く離れていても、声量の大小に限らず、かならず届くものなのである。やがて洋風の家の玄関からトランクスにTシャツ姿のオヤジが現れた。パンツに手を入れて、ギャラン毛あたりを掻きむしりながら、あくびを噛み殺して。

「あ、T先生──……」
「ん。ああ、お前は──……」

……クリが「死ねばいい」と呪いをかけ続けたT先生は、俺が中学校3年生の夏休みに、交通事故であっけなく死んでしまった。Nという、臨時で我々のクラスを受け持った大学生のバイトの先生が、次の小テストの範囲を告げるのと同じくらいの様子で教えてくれた。黙る我々。クリがガッツポーズをする。シャッという声が聴こえた。

「やったぜ。ね。ほら、死んだろ! いやーもう20億文字とかになってたからさぁ。マジやばかったもん。良かった──!」

帰り道。クリの言葉を聞きながら、ふと、女の子の事を思い出した。ペルをいじめないで。ペルをいじめないで──。あの子、どうなるんだろう──……。



先日、田舎に帰った時だ。

嫁が体調不良で寝てたので、ひとりで数十年ぶりに、あの歩道橋の根っこの部分にいってみた。洋風の建物。当時は新築だったけども、流石に30年近く経って、もうすっかりとうが立っていた。4段ほどの石段の上。砂利が敷かれた門の向こうにはベビーカーが置いてあった。ベランダに子供服。駐車場には軽自動車。バーベキューセット。それからやっぱり、犬が居た。あのクソ犬と同じ、茶色い。子か孫か知らんが、やっぱりそいつは俺の顔を見るなり牙を剥いて──……。

──俺は笑いながら、思わず逃げてしまった。

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