猫と暮らす。

お仕事

 俺んちには現在「ピノコ」という猫がおる。基本細いんだけどもお腹がボヨンとしていてシッポがないので、何か脱穀前の米粒みたいな体型をしてる。めちゃくちゃ人懐っこくて可愛いのだけども、ちょっと環境が変わるとすぐ下痢したり水を飲まなくなって逆にウンコが出なくなったりするんで、まあ腹は弱いほうなのだろう。

 人生で俺が飼った事がある猫というのは実はこれで2頭目だ。

 最初の猫はとあるハーブの名前の猫で、当時付き合ってた彼女の連れ子だった。スタイリッシュな体型の黒ちゃんで、腹も丈夫だったし頭も良かったように思う。まあまあ長いこと一緒に居たような気がするけども、彼女と別れてからはついぞ会う事もなく。その十年後くらいに、ふとしたきっかけで知った彼女のブログを発見して目にしたエントリで、その死に際の様子が克明に描かれておるのをみるにつけ、猫という生き物の寿命の短さと、そして儚さを知った次第だ。

 そして時を経て現在、もはやその機会に恵まれる事もないだろうと思ってはいたのだけども、なんやかんやあってまた、猫と暮らす幸運を得た。脱穀前の米粒みたいな、しっぽのないアホな子だけどもね。それから3年か。部屋に鎮座ます愛猫の愛おしさよ。

 1頭目のあの子に関しては、俺はあくまで継父であったがゆえに愛おしさも一歩引いたものだった。しかしピノコの場合、施設から直に引き取っていちから見てる手前、可愛さたるやちょっと信じられないくらいだ。そりゃ腹も下すし毛玉も吐く。お股の所がすげー臭うこともある。それで洗おうとしてもめっちゃ嫌がって断末魔みたいな悲鳴を上げたりね。なんだよもう。猫め! と思っても、ちょっと目を離したすきに、気づいたら猫族が持つご自慢の武器たるザリザリの舌でもって、自ら一生懸命お股を綺麗に掃除してるところを目撃したりすると、ああ、一応キレイにしてるんだなぁとか。感慨深い気分になって大変に愛おしい。

 今日も今日とて、猫と一緒に暮らしておる。部屋の一番高いところで、眠そうに蛍光灯を見上げながら、目を細め。とりとめもなく夫婦の様子を眺めながらあくびをする猫。可愛くて仕方がない。

鼻の所だけ茶色い老猫。

 九州の片田舎の実家には畑があって、その辺の猫に給餌するのが生きがいなんじゃないかみたいな婆さまとかも沢山いた。故に野良猫が増えに増え、その畑の芽を荒らしたりとか。そこらじゅうにウンコしたり。まあまあ害獣扱いされていたものだった。従って少年時代の俺にとって、猫は可愛いとか癒やしとかそういう対象じゃなくて。セミとかカナブンとかと同じラインにいる、その辺でよく見かける野生動物の一種にすぎなかった。

 幼少期。実家の庭によく姿を表す白猫がいた。年老いた老猫で、鼻の周りだけ茶色い模様が入った奴だった。他の野良と違って身体が図太くて動きがトロい。都会から越してきたばかりで兄弟もおらず、友達が居なかった俺は基本的に何をするにもまずは独りだった。庭だけは広い実家。夏休みだ。カンカン照りの太陽の下、庭で独りで遊んでると、垣根の方からその老猫がのっそりと姿を現し近づいてきた。

 餌付けられて人馴れしていても、基本的に猫は臆病な生き物だ。いくら子どもでも、人間は彼らよりも遥かに図体がデカいので、きっと怖い。ゆえに近づくとぴゅーと逃げる。足を踏み鳴らし、ドン。そうすれば近づいてこないというのは当時小学校に上がるか上がらないかの俺でも知ってたので、その時もそうやって追い払おうとした。けども。その老猫は逃げなかった。もしかしたらボケてるのか。あるいは耳だか目だか知らないけども、五感のどっかがイカれてたのかもしれない。

 無言で近づいてくる猫。シッ。シッ。ドン。ドン。幾ら追い払おうとしても、足元にすり寄ってくる。ゴワゴワした硬い毛の感触。思わずフリーズする。セミの声。カンカン照りの日に照らされて立ち上ぼる夏の土の匂い。まっちろな毛に鼻先だけ茶色いその老猫からは、生き物の匂いがした。

 その直後。小学生に入ったばっかの頃だ。特に友達がいない、ファミコンばっか独りでやってる子どもにとって「夏休み」というやつは、永遠に続くかと思うほど長いイベントだった。ゲームをして。庭にでて。ゲームして。庭にでて。特に大人が全員働きに出ていて誰もいない子どもにとっては遠出も禁じられているもので、世界は急激に狭くなる。

 台風の日だった。縁側のサッシから大雨が降る庭を独りで眺めている時、ふと「いま外に出て庭の土でドロ遊びしたら面白いんじゃないだろうか」みたいなアイデアが頭をよぎった。ばかばかしい考えだけども、その時の俺にとってそれは最高に素敵なアイデアに思えた。長靴を履いて、スコップを持って。一粒一粒がベビーチョコくらいあるんじゃないかというほど激しくて重たい雨の中、外に出た。遠くで雷の音が聞こえる。どこもかしこも雨音と水まみれだった。

 わくわくしながら庭の土を掘る。いつもは硬い庭の土も、大雨の中ではさしたる抵抗もなく。いくらでもえぐれる。裏庭からバケツを持ってきて、土を掘ってはバケツへ。上手いこと手のひらでもって水分を逃したバケツの土を山盛りにして、稜線に沿って溝を彫り、川を作って遊ぶ。虚しい一人遊びだった。いっとき夢中になった泥遊びも、結局ひとりでやったところで何にもならないと気づいてから、急激につまらなくなった。雨。雷。幾重にも重なった雨音がぴちゃぴちゃと鼓膜を打つ。雨ざらしのまんま、息を吐いて、そうしてふと見ると、玄関先の軒下に例の老猫が居た。丸くなりながら首だけをスッと伸ばして俺の様子を見ている。

 俺がずぶ濡れなのに猫が雨宿り。

 今だったら「猫のくせに」となるのだろうけど、当時の俺にとっては「ああ、俺よりもこの猫の方が立場が上なんだな」と良くわからない理解を促すのに充分だった。

 信じられんかも知れんが、その時の俺は「猫が見てる」というのがものすごく心強かったのだ。台風の中。猫に見守れられながら土をほじくって遊ぶ。いい感じの山が出来たら猫の様子を伺って、なんかしら納得してまた崩して別の山を。不思議と寂しさはなかった。猫はずっといた。雨が上がって、急激に明るくなった。見上げると、雲の隙間からはしごみたいな光条が差していた。

 あの時の俺は、完全に猫と会話が出来ていた。

それでも猫は。

 年を経て、あしの中学生時代だ。相変わらず田舎には猫が多かった。そして猫たちは、例外なく人間が好きだった。例えば中学校の時分、塾の帰り道。街灯もない夜の暗い帰り道は、トンネルの上の丘にある実家に帰る道を、顔見知りの野良猫がよく先導して歩いてくれていた。昼間だってそうだ。路地を歩いてると野良猫が猛スピードで俺の脇をすり抜けるように追い抜いて行って、5mくらい先で立ち止まって「おいかけっこしようぜ」と言わんばかりにしっぽを揺らしながら待ってる事がよくあった。

 田舎では、猫はセミやカナブンと同じ。一方で、きっと彼らにとっては人間もそうなんだと思う。トンボやカブトムシと同じ。そこにいて、自然ないきもののの一部だったのだろう。俺は猫を好きでもないし嫌いでもない。猫も同じだ。俺のことなんかどうでもいいし。おそらくデカくてなんも出来ない猫だと思っていた筈だ。ただそこにいて、危害も加えず。利も無しで。

 それはとても自然で、良い関係だった気がする。

 すこし時を経て。中学を卒業するや否やの頃だ。我が家の畑の領域がちょっと拡張された。そもそも農家ではない我が家にとって「畑」とは長老であるお婆ちゃんの趣味のための土地だったのだけども、拡張されるとなぜかオヤジも農業にハマった。お婆ちゃんはまだ猫に優しかったものだが、外様であるオヤジが猫の糞害に対してやたら苛烈な態度で挑んでおって、ちょっとしたレボリューションがおきた。革命である。それが「エアガンの導入」だった。猫を追っ払うための、だ。

 これに関しては少々説明が必要かもしれない。都会の人はそんなに気にしたことがないかもしれぬが、田舎の人間にとって「発情期の猫の声」というのはまあまあ面倒臭いのだ。単純に安眠妨害レベルでうるさいし、そこはかとなく人間に似てるあの声がイヤらしいのでとにかく追っ払いたいのである。オヤジは30代後半に一粒種である俺を連れてヤモメになったタチなので、その辺が気に触ったのかもしれない。エアガンでやたら彼らを撃ち始めた。もちろん子ども用のちゃちなおもちゃなので怪我させることはないけども。それでも後世に胤を残すためにナーナーアーアー鳴きながら伴侶を呼んでいる猫族にとっては、いい迷惑だ。知らんところからハゲたオヤジが鬼みたいな形相でBB弾を撃ってくるわけで。当時の俺はそれがおかしくて朝5時くらいにきまって始まる発情の声と、そしてその直後に聞こえる舌打ち。そしてBB弾の射出音を笑いをこらえて聞いておったのだけど、あるとき朝方にトイレに起きた時間とそれがまるまる被ってしまった

 オヤジが舌打ちしながら射撃する、その的。白い毛。ずんぐりとした体型。そして鼻の周りだけ茶色く。あの、台風の時に見守っていた、友達の猫。と同じガラだったけども、ふたまわりくらい小さく。そしてしっぽがもっとずっと長くて立派だった。完全に血族だ。息子か、娘か。あるいは孫もしれないけども、完全に長老の血を引く猫だった。長老とはもう5年以上会ってない。初めて会ったときに既に相当な老猫だったからもはや生きてはいまいと思っていたし、実際その時、この世界には居なかったのだろう。しかし。それと同じ地域で瓜二つの(しっぽの太さこそ違うけども)猫をみて、俺は思わず息を飲んだ。生きてるのだ。個体としてではなく、血族として。猫は生きてる。ずっと生きてるのだ。

 シティハンターの冴羽獠の如きポーズでエアガンを構えるオヤジ。中学校3年生の俺はその横で、そのスライドに手を伸ばす。止める。困惑するオヤジ。首を振る俺。撃ったら駄目だ。あいつは駄目。あいつは俺の友達の──……。

猫は人類の友達だぞ。

 いま、我が家の猫はよくわからんが何かを追い求めて部屋じゅうを走り回っておる。だいたいウンコしたい時とゲロ吐きたいときはイレギュラーなアクションをするのだけども、今の感じはたぶんウンコだと思う。この5分後には俺はピノコのウンコを片付けながらその柔らかさをチェックし、そこから体調の推察しては、やれもうちょっと水を飲ませた方が良いのかもとか、あるいは草食わすかとか。色々考えるのだと思う。

 もうちょっとしたらこの猫は気分も落ち着いて、自ら猫族特有のあのザリザリの舌で肛門付近の掃除を終わらせたあと、しずかに布団に潜って、嫁の脇あたりで寝息を立てるんだと思う。何故か俺が抱っこして寝ようとしたら怒るので、俺はただひとりと一匹がいっこの塊になって寝てるのを、撫でつつ愛でつつ。眺めながら眠るだけだ。

 うちの猫はピノコと言います。いま5歳かな。しっぽがなくて脱穀前の米粒みたいな形をしてる。すげえバカだし臆病だけども、俺はただこの子が愛おしくてたまらない。

 みんなも猫を飼った方がいいよ。本当に。潤いしかない。人生の潤いだ。たまらんから。一人暮らしだから無理とか。出張が多いから無理とか。大丈夫だよ。なんとかなる。ああ、ペットショップはだめだよ。行かなくていい。世の中には愛に飢えた猫たちがあなたを待つ、おあつらえむきのスイートゾーンがあるんだぜ。保護施設っていうんだけどね。そこがいい。ペットショップでも別にいいけどさ。どうせなら愛に飢えたあなただけの面白い子を探そうぜ。

 うむ。猫可愛い。

 さて。本日の仕事はとあるホール団体への寄稿記事が一本。とあるメディア向けの記事が一本。あとミーティングとそれに付随する雑事が少々。アップされたのはななプレスさんの月イチ記事「業界人コラム」でした。よかったらどうぞ。

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